【絶対に勝てなかった大東亞戦争】 ③ マリアナの七面鳥撃ち「あ号作戦(マリアナ沖海戦)」とは?
あ号作戦(マリアナ沖海戦)
この海戦こそは、日本帝国海軍がアメリカ海軍を想定敵国として、多年にわたって営々として戦備を整え、演練を重ねて技を磨き、こうすれば勝てるという状況で、戦われた唯一つの戦いであった。マリアナ列島を中心とする海域に、アメリカ艦隊を引き入れて、そこで日本帝国海軍連合艦隊の全力を挙げて決戦を挑み、雌雄を一挙に決しようというのが、多年にわたる日本帝国海軍の根本の戦略であった。名付けて邀撃決戦といった。
帝国海軍のあらゆる戦備も教育も一切がこの思想に基づいていた。開戦時に真珠湾を攻撃したのも、南方の資源地帯を攻略したのも、究極においては、この作戦を実現させる手段に過ぎなかった。
ただ、追い詰められた戦局から、立ち上がらなければならなかった点が、誤算であった。
この作戦を、日本帝国海軍では「あ号作戦」と名付けた。
この作戦のために帝国海軍が動員した兵力は、最新鋭の空母「大鳳」を含む9隻の空母、「大和」「武蔵」「長門」を含む戦艦5隻、重巡10隻、軽巡3隻、駆逐艦29隻、潜水艦34隻に達し、その空母搭載機は総計450機、艦載水上機は43機であった。このような大艦隊兵力が集中したことは、真珠湾攻撃の時にもミッドウェーでも、また南太平洋海戦の時にも無かったし、この海戦の後にも、もちろん無かった
またこのほかに、第一航空艦隊の精鋭の基地航空部隊、約600機が協力することになっていた。しかも、この戦闘海面は、戦前からこの事のあるのを期して、猛訓練を重ねてきたマリアナ諸島を中心とする海域である。主戦闘兵力である空母搭載機の数は、日本側はアメリカのほぼ半数であったが、基地航空部隊を入れれば日本側の方が上回っていた。
そして、帝国海軍には必勝の戦法・図上演習では負けた事の無い「アウトレンジ戦法」があった。
昭和19年6月19日、大日本帝国第一機動艦隊司令長官 小沢三郎中将は、アウトレンジ戦法による二度にわたる攻撃に、機動部隊の全力を投入し、合計324機を繰り出した。しかしながら、一隻の敵艦も撃沈することなく、それどころか作戦続行不能の被害をあたえた艦すら存在しない有様であった。そして損害機は193機、未帰還率は六割以上にのぼる甚大なものとなり、かろうじて帰艦できた機も、その多くが被弾し、再度使用できる機はさらに少なかった。これに対し、アメリカ軍機の損害は、わずか29機でしかなかった。
この一方的な迎激戦勝利をアメリカは「マリアナの七面鳥撃ち)Great Marianas Turkey Shoot)」と、揶揄した。
この戦いの結果として、日本帝国海軍は空母3隻と、搭載機のほぼ全てを失う壊滅的敗北を喫した。
この敗因は、日本帝国軍部の上層部の「書類上手、戦下手」という、戦略センスのなさ、独善的な思考にあった。
「新兵器VT信管」に負けたわけでは決してない。日本機の大多数を撃墜したのは対空砲火ではなく、空母レキシントンに一元化された戦闘機指揮管制システムによって、最適の迎撃位置に誘導されたF6F戦闘機だった。わずか10分あまりの空戦で、90機近い日本機が打ち落とされたが、この時のF6Fパイロットには、これが初実践という者も多かった。そんな新人でも戦える体制を作ったアメリカは、発着艦すら覚束ないパイロットを「アウトレンジ戦法」に送り出し、自分たちは弾の飛んでこない、安全と思っていた後方にいて「これで勝った」と自惚れていた日本帝国海軍上層部とは、知性の質が違っていたといえよう。
VT信管は攻撃機の照準を甘くさせたり、攻撃を断念させるのには有効だが、迎撃能力はまだそれほどのものではなかった。この時に対空砲火で撃墜された日本機は、10数機から20機程度であった。艦隊防空の要は艦載戦闘機による迎撃であり、だから、その傘を失った日本帝国艦隊のその後の敗北は必定だった。